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備前・旭川の憂鬱 (「芸術」と「表現の自由」は並立できるのか!? 19-108) [日記・雑感]


今朝ほどのnewsで先日の愛知県での「芸術」と「表現の自由」と全く同じ〝状況〟がオーストリアでも発生しているようです。それは、「風刺 ウィーン芸術展」です。渋谷電視台(別名NHK)のNEWS WEBをコピペします。

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「安倍首相などを風刺 ウィーン芸術展 日本大使館が公認撤回」 NHK NEWS WEB 2019/11/07

オーストリアの首都ウィーンで、日本との国交樹立150年を記念する事業として開かれている芸術展について、現地の日本大使館が公認を取り消していたことがわかりました。

芸術展では、安倍総理大臣や原発事故などを風刺したような作品が展示され、大使館は「友好関係の促進に合致していないと総合的に判断した」と説明しています。この芸術展は、日本とオーストリアの国交樹立150年を記念した事業の一環として、9月下旬からウィーンで開かれています。

会場では、安倍総理大臣にふんした人物が歴史問題などをめぐる演説を行う動画や原発事故をテーマにした作品や動画、それに昭和天皇とマッカーサーが並ぶ写真に似せた作品などが展示されています。

この芸術展について現地の日本大使館は、今年1月に記念事業として公認していましたが、先月30日で撤回したことを明らかにし「両国の友好関係を促進するという目的に合致していないと総合的に判断した」と説明しています。

日本側から助成金は交付されておらず、記念事業の公式ロゴが使われないことになりますが、芸術展は引き続き開催されるということです。

芸術展を主催した「ミュージアム・クオーター」は「芸術、表現の自由という観点から、この芸術展も尊重されなければならないと考えている」とする声明を出しました。

また、この芸術展を企画した学芸員は「日本でタブー視されていることをヨーロッパで表現したかった。日本側を傷つける意図はなかった」と話しています。
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「あいちトリエンナーレ2019」もSNSを中心に大炎上?しました。念のため炎上内容をBusiness Journal siteよりコピペします。

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「愛知・大村知事、表現の自由めぐる二枚舌が物議…トリカエに「中止すべき」トリエンと真逆」 Business Journal 2019/10/29

“表現の自由”をめぐって大混乱が生じた「あいちトリエンナーレ2019」。騒動が収まらないなかで、今度は「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」が開催され、新たな論争を巻き起こしている。

「トリエンナーレ」で問題視されたのは、「表現の不自由展・その後」における展示内容だ。元従軍慰安婦を象徴する少女像や、昭和天皇らしき人物の肖像を燃やす映像作品などに抗議が殺到し、一時展示中止へと至った。さらに、文化庁が当初交付予定だった補助金約7,800万円の“全額不交付”を決定し、あいちトリエンナーレ実行委員会会長を務める大村秀章愛知県知事が反発するなど騒動が拡大。10月8日には「表現の不自由展・その後」が展示再開を迎え、再び注目を浴びたことも記憶に新しい。

一方、10月27日に開催されたのが、ある政治団体が主催した「表現の自由展」だ。“日本人のための芸術祭”と題して企画された展示で、「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタなどがあったという。また、ヘイトスピーチに反対する市民団体が会場施設に中止を申し入れたとも報じられている。

29日の定例会見で大村知事は「表現の自由展」の展示内容について、「報告でしか聞いていない」と前置きしつつ、「明確にヘイトに当たるのではないかと思います。その時点で中止を指示すべきだった」と明言。また「今後どういうふうに毅然と対応していくか検証して、きちんと対応していかなければならない」とコメントし、法的手段を講じられるのかも含めて検討していく考えを示した。

「表現の自由展」についてネット上では賛否両論が巻き起こっており、否定派からは「ヘイトスピーチだと指摘されるような内容で“日本人のため”なんて言わないで」「企画意図は理解できても芸術としては受け入れられない」などの声がある。

対して擁護派からは「表現の自由を行使した芸術なのに、なぜ問題視されるのか」「これはトリエンナーレに対するパロディであり芸術のひとつだと思う」といった反応が見られる。

また、「トリエンナーレで表現の自由を強調した大村知事が、今度はヘイトだと言う。それは芸術に対するダブルスタンダードでは?」「不自由展の内容が表現の自由を認められたのに、トリカエナハーレが批判されるのはおかしい」という意見も上がっている。

2つの展示会が巻き起こした“表現の自由”論争は、今後の芸術界にどのような影響を及ぼすのだろうか。
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両者本当に嗤ってしまいたくなるほど、環境や騒動の内容が一致しています。表題に示しました通り〝「芸術」と「表現の自由」は並立できるのか!?〟ということになります。〝タブーに挑戦する〟という行為は昔からありました。

19世紀以来、ヌードの絵画も当時は「芸術」であるか否か、作品に対して賛否両論があったようです。しかし、この両者はそれとは異なると思います。なぜならヌード絵画の場合、表現者である芸術家とヌードのモデルとの間で、その絵画の公開に対してお互いに了解事項になっています。(例外も有ったやに聞いてはいますが...)

風刺の行き過ぎも2015/01パリで発生した〝シャルリ・エブド事件〟がありましたね。記憶に新しいです。イスラム教預言者ムハンマドの風刺画を繰り返し掲載してきた、フランスの風刺週刊紙「シャルリ・エブド」の風刺画家、編集者、記者など12人が、イスラム教過激主義者でアルジェリア系移民2世の男性たちに銃殺される事件です。

これを受けて、言論や表現の自由について大きな議論が発生した。暴力による言論の封殺は論外ですが、表現行為の自由はどこまで保障されるべきなのだろうか?大議論になりました。

タブーに挑戦する事は、当事者にとって〝オレはやったぞ!〟〝国家権力と戦ったぞ!〟といった高揚感や優越感、別の言葉では〝蛮勇〟でして、自己満足できるのでしょうね。

しかしながら愛知トリエンナーレも、オーストリアの風刺 ウィーン芸術展も、両者とも〝公開する側〟と〝公開される側〟の了解事項になっていません。

それに両者とも〝公的な補助金〟の対象ですから、余計に慎重さが求められます。補助金は〝税金〟ですから、極論すれば国民あるいは県民の了解が必要です。民主主義下での国民は、まあ多数決相当の、そう過半数の賛成が必要でしょう。極端に少ないマイノリティー、例えば極右・極左を尊重する必要はありません。


「芸術」と「表現の自由」、芸術家なりプロデューサーと称する方々はいつも「芸術」に対して、若干上から目線で〝庶民には理解されなくていいんだ〟といった傲慢さが感じる時があります。この感覚は何処から来るのでしょうか!?

今回の「芸術」は権力者への個人攻撃、個人の尊厳・人権の否定に他なりません。娼婦像(慰安婦ではありません)は明らかに間違った虚構を無理やり具現化したものでして、芸術とは全く異質なものです。それは芸術家やプロデューサーの自意識過剰と選民思想ではないかと筆者は思っています。芸術家もプロデューサーもこの世では〝特別の存在〟ではありません。

権利には必ず義務が伴います。自由には必ず規律が伴います。どちらが欠けても自由と民主主義、人権の尊重は機能しません。何れも〝行き過ぎ〟は国民生活や今の社会の仕組みを毀損します。

ということで、「芸術」と「表現の自由」は、権利と義務、自由と規律の範囲で並立すると思います。



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