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備前・旭川の憂鬱 (メディアは本当にちゃんとしたメッセージを出せてるのかな!? 21-24) [日記・雑感]


筆者は過去数回、当blogへメディアのインチキをuploadして来ました。受信側の国民が井戸端会議や犬端会議のノリでMCやコメンテーターの浅薄なご意見を、真に受けているのではないかと危惧しています。

メディアは基本的に時代劇に出て来る江戸時代の〝瓦版売り〟から全く進化していません。〝瓦版売り〟の口上は皆さんご存知の通りでして〝さあ~ 大変だ、大変だ!こんなお話、他じゃ滅多に聞けませんよ~、ここで素通りは一生の損というものでっせ、さあ、さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい〟

これを毎日垂れ流しています。TVが特に酷いのですが、ご覧になっている方々はこの口上に疑問を持って頂きたいと思います。

【メディア=瓦版売り】でして、本質は〝営利企業〟です。ここが大事です。正論とか正義とは程遠い存在です。


あの朝日新聞が判り易いのですが、戦前の紙面をご覧ください。ご存じない方は驚かれると思います。この紙面は六衛府@yukin_doneさんのtwを拝借しました。

朝日新聞 - コピー.jpg


【朝日新聞】、戦前は軍部と国民を好戦的に煽るだけ煽り、戦後は一転して左傾した購読者の喜ぶ記事を捏造してでも書いて読者を騙すという、報道機関の使命を微塵も自覚していない最低の部類に属する新聞社という事になります。


ところで、意識〝だけ〟が高いと思っていた「爆笑問題」の太田光さんが、極めて正当なご意見を、それもTV番組の中で発言されたそうです。筆者は生憎その番組を見ていませんので、前後関係やニュアンスは判りません。後日SNSで文字起しした投稿を見て、これは昨今の新型コロナウイルス禍のメディアの在り方を、自己批判をされたのだと理解しました。

彼は昔どこぞの番組で、当時の安倍総理と相対して、意識〝だけ〟が高い発言を連発していましたので、今回の発言に少なからず驚きました。要旨だけピックアップします。

太田光さんは、政府の対応の是非にかかわらず、頻繁に立場を変えて報道するメディアのあり方について疑問を呈している。

「多様とは言いながらも、五輪に関して言うと、野党の政治家が総理に『五輪と国民の命どっちが大事なんですか』って迫り方をしたよね? 総理はそりゃあもう、その言われ方をしたら『命』って言うしかない、と思うんだけど」

「『イベントと国民の命、どっちが大事なんですか?』と言われたら、それは『命です』と言わなきゃならない。それをテレビもずっとやってきたような気がするんだよね」

さらに「テレビは、散々五輪を批判しといて、これから放映するわけですよね? 俺はどっちかっつうと五輪に関しては、テレビは主催者側だと思ってる」とテレビ局の抱える矛盾を指摘した。

筆者は彼を見直しました。付け加えるなら〝高校野球〟の開催の是非は既存メディアは全く言及しません。この彼の素直な発言をメディアの方々全員が共有して頂きたいと思います。


少し言論人らしい少し丁寧な(最近の流行語ですが)言説もご紹介します。それは、佐々木俊尚さんが、2021/07/12の《note》に投稿された言説です。

キャプションは、〝特集 新聞テレビに本来求められているのは、知識と議論のプラットフォームである〜〜職能集団社会とマスコミの関係性、その可能性を探る〟です。ごく一部を引用します。

「公正にまとめる能力」こそが、実は新聞やテレビのようなマスコミに期待されている機能なのではないでしょうか。

従来は新聞テレビは「取材」という行為によって、「公正にまとめる能力」を実現しようとしていました。たとえばレジ袋有料化という政策があれば、政治家に話を聞き、環境省の官僚に話を聞き、レジ袋メーカーに話を聞き、廃プラスチックの専門家に話を聞き、海洋ゴミの専門家に話を聞き……という取材をくり返し、果たしてレジ袋有料化という政策が適性かどうかを社会に問う。それこそがマスコミの役割だったはずです。

ところがいまの新聞テレビは、そういう役割を果たすことができていません。

理由の第一は、社会が複雑化した結果、記者やディレクターの古い価値観や知識では太刀打ちできなくなってしまったということ。

第二は、あまりにも権力監視に走りすぎた結果、できごとを「公正にまとめる」のではなく、政権打倒のための材料にしてしまったということ。

この二つの要因が重なった結果、マスコミは一般社会からの信頼を失い、「いったい何のための存在なのか?」という存在意味さえ問われる事態に陥ってしまったのです。

以上、見事にメディアの現状を指摘されています。筆者は思います、メディアを悪徳詐欺師だと思え!?と。



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