海外出張1990年<南米から米国>(その1) [日記・雑感]
1回目と2回目で「最初の海外出張」の仕事以外の顛末を述べました。1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻した頃を挟んで、2回の海外出張を命じられました。
このコラムでは1990年6月にアルゼンチン・ブラジルと米国西海岸の出張について書いてみます。
突然の事でしたが、何とか資料を作成し、成田より搭乗。NYC/JFK経由ブエノスアイレス・EZEエゼイザ空港です。8年前の海外出張とは大きく異なり、成田-JFKはノンストップの直行便、12-13時間のフライトでした。
NYC/JFKでトランジットですが、一旦、米国に入国です。でっかい黒人系の入国審査官immigration officerに睨まれながらも、なんとか入国できました。さっそく、次のブエノスアイレス・EZE行きのフライトのチェックインです。ARG:Aerolineas Argentinas航空です。
空港を歩いていると、さすがに「人種のるつぼ」と言われるだけ色んな人を見受けました。その中で目を引いたのが「ペネロペ・クルス」に似た(勝手に思っただけです)のような美人、黒色ツバの広い丸い帽子を被り、黒色のワンピースを着ていました。とにかく目立ちました。
さて2時間のトランジットでブエノスアイレス・EZE行きに搭乗しました。機体はB-747でしたので違和感なく着席できました。これから確か12時間のフライトです。夜行便ですから景色は全く期待できません。
機内ではご承知の通り、トイレに行く以外、やるることが有りません。しょうが無いのでワインをCAに頼みました。ラベルにはSanta Anaと記載、後で知ったのですが、アルゼンチンの有名銘柄でした。環境もあり美味だったので、もう一本頼みました。日本でも当然手に入ります。帰国後確認しました。
成田を出て27時間で、やっとブエノスアイレス・EZEに到着しました。空港の出入り口はカービン銃を持った警察官が配置されていました。日本では絶対に無い風景でしたので、少々緊張しました。
当日はブエノスアイレス泊、夕方街に出て見ました。こざっぱりした街でして、なるほど「南米のパリ」と呼ばれる訳だと、パリに行ったことの無い私でも、そのように感じました。
店に入ると〝オラ〟と言われました。少々ビックリです。日本語ではあまり品が良くない会話ですから。
1990年当時アルゼンチンはインフレが激しく、通常通貨はペソですが、オーストラルとか云う通貨を使っていました。それでもインフレに間に合わなくて「0」を数個はんこを押した紙幣を見ました。
店ではUSDが流通していました。1週間で物価が2倍とかになるので、勤労者は月給ではとてもとてもたまらん訳でして、週給が主流となっていました。日本では考えられない経験をしました。
翌日ブエノスアイレスから車で1時間程度の工場へ行きました。途中は教科書で習った「パンパ」です。広大な牧草地が拡がっています。牧草の堆積は5mにもなるそうです。牛達が三々五々草を食んでいる景色が延々と続きます。美味しいビーフとなる訳です。
以下、次回とします。
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