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備前・旭川の憂鬱 ( 2022年度貿易赤字21.7兆円・過去最大 23-16) [日記・雑感]


2022年度は、資源価格高騰と円安で輸入額が膨らみ、貿易赤字は過去最大になったそうです。

輸出は2021年度比15.5%増の〝99.2兆円〟、輸入は32.2%増の〝120.9兆円〟だった。輸出、輸入とも過去最高を記録し、貿易赤字は〝21.7兆円〟と過去最大となりました。

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筆者の現役時代、戦後の昭和時代の日本は巨額の貿易黒字を続けていて、欧米諸国等との貿易摩擦に悩んでいたため、当時を知る筆者としては隔世の感があります。工場建設用精密機械をカナダから輸入したのですが、発注後1年経過し精密機械が届きました。この間で、為替が10%以上円高となり、決済で10百万円も安くなりました。今はその真逆です。

根源的な原因は、超円高時代に輸出企業がチャイナを中心に、海外へ生産拠点を移した事により、円安でも輸出が増えにくくなっていること、2011年の東日本大震災による原発の停機により、エネルギーを化石燃料の輸入に頼る体質に変化してしまった事、が考えられます。

昨年2022年はそれに加えてコロナ禍終息による世界経済の回復、ウクライナ戦争による資源の武器化によるエネルギー価格等の高騰、半導体不足等による生産減、といった特殊要因が加わりました。感覚ではなく〝21.7兆円〟の貿易赤字の内訳を具体的に見てみましょう。

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3項の「鉱物性燃料」の内、液化天然ガス:LNG、液化石油ガス:LPG、および石炭、はほとんど全てが〝発電用〟と思われます。合計が何となんと〝18.5兆円〟に上ります。

貿易赤字の総額が〝21.7兆円〟ですから、その凡そ85%が、発電用燃料の高騰した輸入価格に相当します。


〝エネルギーの自給率を高めたい〟は戦前も戦後も一貫した日本国の課題でした。筆者が実際に経験した中では、何と云っても、日本に激震が走った、1973年発生した「第1次オイルショック(昭和48年10月‐昭和49年8月)です。筆者は当時、社会人になって3年目でした。

当時も現在も変わりませんが、エネルギー自給率が低く、しかも当時は中東からの原油輸入に大きく頼っていました。原因は1973年10月に勃発した「第4次中東戦争」でした。今の「ウクライナ戦争」と酷似しています。

OPECが原油の供給制限と輸出価格の大幅な引き上げを行うと、国際原油価格は3カ月で約4倍に高騰しました。〝エネルギー源の多様化を進め、石油依存率を下げる〟が国策になりました。

当時は「エネルギー安全保障」という言葉は流通していませんでしたが、状況は現在と全く変わりません。

当時、エネルギーを国産化し、海外の情勢に影響されにくいエネルギー体質国家を作る、すなわち石油依存率(現在ではLNG・石炭も含む)を下げるという観点から「原子力発電」に大きく傾斜したのです。


2011年3月11日「東日本大震災」が発生しました。極めて残念なことに、その地震による津波の影響で福島第一原子力発電所が爆発事故を起こしました。確かに放射線はかなりの量漏洩したのですが、放射線被爆で亡くなられた方は〝皆無〟です。災害関連死の方は2000人単位でいらっしゃいます。

「不都合な真実」ですが、当時の政権が法的根拠もなく、閣議決定もなく、単に〝活動家内閣〟が、その政治的野心を満たすために、国民経済を考慮することなく、全原発を停機させた事は〝日本のエネルギー政策〟を大きく歪めました。


資源エネルギー庁の資料によりますと、1995年-2000年では、国内原発による発電力量(電力量kWhであり発電能力kWではない)比率は、全発電力量の〝34%〟ありました。現在は〝7%〟程度です。

今、各電力会社から電気料金の値上げ申請が経産省に提出されています。しかし、原発比率(2021年)の高い九州電力36%や関西電力27%では、燃料価格高騰にも関わらず電力料金の値上げ申請をしていません。

これが1973年に経験した危機〝エネルギー安全保障〟を実現した形になっています。

日本国内では原爆と原発を同一視し、政治的活動に〝反原発〟をことさらに強調する風潮があります。また、使用済み燃料の最終処分場がないことに対して、活動家やメディアは〝原発はトイレのないマンション〟と揶揄していますが、既に技術的には完成していまして、後は政治的決断を待つだけです。

北欧2カ国では既に使用済み燃料の〝ガラス固化体貯蔵〟が開始されています。


ドイツでは2023年4月15日、最後の原子炉3基が発電のための運転を停止しました。日本のメディアは大きく報道していましたが、日本とドイツでは置かれている電力環境が大きく異なります。

さらに、グリーン・エネルギーに大きく舵を切り、原発ゼロになったドイツの電力単価は、すでに0.36ユーロ(53円)/kWh に達しています。

そういえば、戦禍のウクライナ、原発がロシアから攻撃されたり略奪されていますが、原発を稼働させなんと電力を輸出できるまでに原発を維持・稼働させています。

これに対して日本の経産省は冷静に判断しています。西村大臣のTweetをご覧ください。

西村康稔 - 409.jpg

欧州各国でも原発に対する姿勢は大きく異なります。ドイツが原発ゼロとなった同じ日に、フィンランド南西部のオルキルオト(Olkiluoto)原発で4月16日未明、欧州最大級となる3号機(出力160万kW)が本格的な運転を開始しました。運営会社TVOが発表しました。数時間前には、ドイツ最後の原発3基が稼働を停止したばかりだった、と報道されています。

欧州の原発事情を渋谷電視台(別名NHK)の番組より引用します。

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日本では貿易収支を改善し、電気料金の大幅な値下げを実現させるには、既設原子力発電所33基をフル活用する以外に方法はないと思います。



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備前・旭川の憂鬱 (『和田誠展』岡山県立美術館  23-15) [日記・雑感]


『和田誠展』岡山県立美術館に行ってきました。今さらご紹介するまでもなく、余りにも高名なイラストレーターであり、グラフィックデザイナーです。さらに、あの「平野レミ」さんのご主人でした。

入場して先ず、その展示の〝物量〟に圧倒されました。次に、それぞれ描かれた人物が判ることでした。これは喜んでいいのか、それとも悲しむべきか、チョット悩みました。要するに筆者も歳を取ったなあ!という事です。


岡山県立美術館の入り口です。

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展覧会リーフレットの表側です。猫と鼠のイラスト、素晴らしいですね。画像をクリック頂くと、イラストが少し大きくなり、見やすくなります。

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以下、撮影可、でしたので絵を並べてみます。

先ずは〝物量編〟です。週刊文春、今でも何かと注目を集めていますが、この表紙を「毎週」描かれています。鬼才と言わずして何と云うのでしょうか。

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これも似顔絵ですね。半分ぐらいは、どなたか判ります(悲)。

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さらに「似顔絵コーナー」黒柳徹子さんや加山雄三さん、直ぐに判ります。

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これは、今回筆者が最も気に入ったイラストです。風刺のセンスが抜群です。

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イベントや会社のロゴマークですかね、筆者の知らないマークも多数ありました。

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子供サイズのセーターやメガネのデザインです。左隅のメガネ、COOKですね。レミさん用でしょうか?

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物量がありますので、できればもう一度訪れたいと思います。筆者の〝ノスタルジー〟を大いに掻き立ててくれました。素晴らしい時間でした。



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備前・旭川の憂鬱 (季節の歩み  23-14) [日記・雑感]


今年〝75歳〟になりました。いよいよ本格的に「高齢者」になりました。保険的には「後期高齢者」になりました。

ついでに〝免許証返納〟しました。一部の方々から〝不便でお困りでしょう〟と頂きました。しかし、これには少々インチキがあります。妻がまだ運転しています。さらに岡山市がバス・市電の「半額ICカード」を発行しています。

そこそこ、バスの便がありますので「ほど良い不便さ」に満足しています。「車」のない生活習慣の移行を〝免許証返納〟の半年前よりトライしていましたので、スムーズに「車」のない生活へ移行できました。

まあ、恵まれた交通事情があったからでして、山間部・過疎地域の方々からはご批判を頂くでしょうね。


今年は季節の歩みが、通常より2週間ほど早いと感じます。そそっかしい江戸の〝さくら〟だけでなく、全国的に2週間ほど早く咲いたようです。

当地・岡山市のツツジも1週間ほど前から咲き始めていまして、昨日あたりは開花しています。通常より2週間程度早く咲いていると思います。通常は連休ごろでしょうか。


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植物は環境変化を敏感に感知し、彼らの年間スケジュールを最適に修正し、適応しているように思います。季節は確実に歩んでいます。



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備前・旭川の憂鬱 (「JRローカル線の観光列車「SAKU美SAKU楽 (さくびさくら)」  23-13) [日記・雑感]


ここ数年はコロナ・コロナ、そして私的には介護、でなかなか長時間の外出ができません。

しかし岡山地区、JRローカル線ではありますが「津山線」を走る観光列車「SAKU美SAKU楽 (さくびさくら)」ですと、岡山・津山間、約60kmを半日で往復できます。車内で昼食をとる予定で、評判のローストビーフ弁当を予約し、復路で乗車することにしました。

ところが筆者の平生の行いが悪いせいか、乗車当日は雨天、と云っても大雨でして、散り桜を〝車窓〟からの愛でることはできませんでした。もっとも今年は季節の進行が速く、2023/04/07現在、ツツジはチラホラ開花、新緑もぼつぼつですね。

さて津山線を走る観光列車「SAKU美SAKU楽」ですが、鉄ちゃん風に言えば、国鉄型キハ40系1両を観光列車に改造した車両です。。

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車内の様子をご覧ください

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津山駅も雨でして、周辺の探索もままならぬ状況でした。しかし、駅では津山市出身「B‘z」の大型ポスターが目を引きました。ごく最近ではM1の「ウエストランド」が注目されていますね(笑)。

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昨今、ローカル線の在り方が議論されていますが、やはり「公共交通機関」が一義的に優先されるべきと思います。そして固定費を増やすことなく増収を狙った観光列車は検討されてもいいと思います。

しかしながら、人口が減少する我が国を見ると、どう考えても3年後、10年後に赤字を解消できる事業計画が作成できない路線は、ノスタルジーは理解できますが、地域の通勤・通学の足を優先に考えると、もはや鉄道でなく、よりコストの低い交通機関へ移行するしかないのではないか、と考えます。

もちろん、只見線のように、経営を離れたノスタルジーを推し進める「ウルトラC」(この言葉、死語か?) があれば、それは地方公共団体が責任を取る、と云うことで納税者も納得でしょう。

難しいお話になりましたが、乗車率もまあまあの観光列車「SAKU美SAKU楽」のアテンダントさん(当日は2人)のご努力を称賛したいと思います。日常から離れた空間を演出頂きました。



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備前・旭川の憂鬱 (「邪馬台国」は『北九州』で決まり!  23-12) [日記・雑感]


「邪馬台国」論争は古くからありました。そのほとんどは〝北九州説〟と〝畿内説〟です。

筆者が突如「邪馬台国」論争に興味を覚えたのは、ソーシャルメディア、特にYouTubeの汎用化に伴い、アカデミアではない方々、例えば歴史愛好家の方々が、空想ではなく、過去の歴史書や当時の常識的な時代背景、さらに地理学を参照・考証しながら「邪馬台国」論争を冷静に議論されていることに因ります。

「考証」なんですが、辞書では〝昔の事について、文献に基づいて実証的に説明すること〟とあります。これが曲者でして、考古学者や歴史学者は文献・文書(もんじょ)至上主義ですから、井沢元彦氏流にいえば〝当時の常識的な時代背景、さらに地理学を蔑ろにしている〟ので、これが歴史を歪めている、となります。

「邪馬台国」論争も、この側面が垣間見られまして、悪戯に問題解決を複雑にしています。

最近、暇に飽かせて、前述のYouTubeを見ていました。その中で、下記二つの動画に注目しました。

「真・日本の歴史@user-tp1fq1qt2n」著
【魏志倭人伝】邪馬台国はここにあった!邪馬台国論争に終止符!?【真・日本の歴史】
真・日本の歴史@wiSU3hvA7oyy3a1 約1時間
https://www.youtube.com/watch?v=hMDQ5qjoKuI 

「これはどうでしょう@user-wj8xy3zu3b」著
第9話 考古学資料で解明 新・卑弥呼はここにいた【古代史探索の旅Ⅲ】 約20分
https://www.youtube.com/watch?v=sCOBKs9BqPQ 
第10話 考古学資料で解明 新・卑弥呼はここにいた【古代史探索の旅Ⅲ】 約18分
https://www.youtube.com/watch?v=xYHAUFidIe0 

いずれも具体的な投稿者名・著作者はわかりませんが、アカウントで代替させて頂きます。

それと、井沢元彦『逆説の日本史 1古代黎明編』第3章卑弥呼編、および第4章神功皇后編 も参照しました。

両動画の「考証」基本姿勢は、ナレーションでも述べられていますが、

❖ 『魏志倭人伝』 『古事記』 『日本書紀』 『新羅本紀』 光武帝の『後漢書』等々を〝素直〟に
 〝虚心坦懐〟に読みましょう。
❖ 昔の地名 (平成の大合併やそれ以前の地名変更で旧地名が判らなくなっている) と文書の地名の相似
 から、現在の地名に地図化し、場所を特定していきましょう。それでも理解できないところは
 そのままにし、無理な解釈を止めましょう。
❖ 文書に記載されている距離や時間を現在の視点ではなく、当時の視点、常識から理解しましょう。

❖ 考古学的な出土品・発掘品を地理的に、そして時代的に広く水平展開し、考証し、想像・類推を
 排除する。

といったものです。何れの動画も、悪戯に深読みや恣意的な解釈は慎みましょう、としています。

そして、もう一つ、筆者の経験から言えることは〝余りにも不条理で理解不能な事象は「ノイズ:雑音」として無視しましょう〟です。


このような態度・姿勢で『魏志倭人伝』で従来より議論の尽きなかった、帯方郡から邪馬台国への〝方向〟と〝距離〟を、当時の常識に従い〝再考証〟しておられます。詳細は両動画をご覧ください。〝まとめ〟的な解説図を動画から借用します。

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『魏志倭人伝』に記載されている地名を現在地名と対比し、位置関係を当て嵌めていきます。記載されている国名は29ヵ国もあるそうです。ただし、ここで云う〝国〟は、〝藩〟よりも狭く、現在の行政区域の〝市〟あるいは〝郡〟程度と思います。

『魏志倭人伝』に従って先ずは、[帯方郡(たいほうぐん)= 現在の北朝鮮に含まれる黄海北道・南道から軍事境界線の南、ソウル付近] ⇒ [狗邪韓国(くなかんこく)=釜山辺り]、ここから海を渡ります。

(船) ⇒ [対馬国(つしまこく)] (船) ⇒ [一大国or一支国(いっしこく)=壱岐] (船) ⇒ [末盧国(まつらこく)=東・北松浦郡]で、やっと倭国に上陸です。

[壱岐]ですが、『魏志倭人伝』では[一大国]、『魏略逸文』・『梁書』・『隋書』・『北書』では[一支国]と記載されているそうです。


ここから〝陸行〟です。 [末盧国=東・北松浦郡] ⇒ [伊都国(いとこく)=糸島市] ⇒ [奴国(なこく)=福岡市] です。

[奴国]ですが、現在の福岡市には「那の津」とか「那珂川」とい地名が残っています。

[奴国] ⇒ [不弥国(ふみこく)=粕屋郡宇美町] に到着です。ここで突然、南へ[投馬国]へ至る。水行20日と全然別の話になります。


といった具合に『魏志倭人伝』を読み解いていきます。『魏志倭人伝』に出てくる国名と現在の地名を相似してみましょう。

既に述べた地名以外にも、[狗那国(くなこく) =熊本県] [対蘇国(とすこく)=鳥栖市]  [斯馬国(しまこく)=志摩郡]、[姐奴国(そなこく)=佐賀市]があります。

そして大本命の[邪馬台国=旧山門郡]があります。

[投馬国(つまこく)=薩摩?]ですが、薩摩は現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を示します。投馬は「西都市妻」や「都萬神社」として地名が残っています。また〝西都原古墳群〟もあり、[投馬=薩摩]と推定することは可能ですが、少々飛躍がありますので〝ノイズ〟としておきます。


次に〝大問題〟となるのが「距離」です。どこそこから、どこそこまで何里と記載されています。

例えば、[対馬国] まで1,000里 、[一支国=壱岐] まで1,000里、 [末盧国=東・北松浦郡]まで1,000里と記載されています。当時は海上で正確に距離を測定することはできなかったでしょうから、凡そ1,000里ぐらいではないか、という感じです。

また陸行では、例えば [末盧国=東・北松浦郡] から[伊都国(いとこく)=糸島市]までが500里と書かれています。松浦から糸島までは約60kmですから、1里が120mぐらいになります。

[伊都国(いとこく)=糸島市]から[奴国=福岡市]までですが、[奴国=福岡市]は広いので、とりあえず国境まで20kmとしますと、1里が200mぐらいになります。

蛇足ですが[奴国]は当時から大国でして、『魏志倭人伝』でも2万戸と記載されています。戸数が「万」を超える国は、[奴国]、[投馬国]、と[邪馬台国]の3ヶ国だけです。

奴国と云えば例の「漢委奴国王印」という金印です。『後漢書』には、建武中元二(西暦57)年に光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれています。江戸時代天明年間に現在の福岡市志賀島より発見されています。


チャイナの古代数学所の『周髀算軽経』によると〝1里は約76m〟で計算するとあるそうです。現在のチャイナでは〝1里は500m〟だそうです。日本の常識とは大きく違います。この距離が直線距離なのか、それとも旅程距離なのか分かりません。目安程度に理解すべきと考えます。

このようにして『魏志倭人伝』を考証していくと、先ほどのマンガが描けます。結論的に筆者の独断と偏見で言いますと〝邪馬台国は北九州の、現在の佐賀平野から、みやま市、山鹿市辺りに実在したと考えます。そして「邪馬台国」は周辺国も加えた「女王国連合」であったと思います。あの有名な「吉野ヶ里遺跡」もこの「邪馬台国女王国連合」の一つであったのでしょう。

残念ながら、卑弥呼の宮殿や墓が、現在のところ発見・発掘されていません。場所は数ヶ所提示さてはいます。


「邪馬台国」論争はアカデミア・学会的には結論が出ていません。何故でしょうか?

それは「自虐史観」と「皇国史観」の無意味な論争が「邪馬台国」論争を激化させたことにあります。戦後「自虐史観」に支配された歴史学者たちが「邪馬台国」は奈良にあった、と推しているからです。彼らは『古事記』『日本書紀』を否定したいのです。今も歴史学者は神武天皇を含め開化天皇から以前はいなかった、と主張しています。

確かに、初代神武天皇から、16代仁徳天皇までは、記録に残る崩御年齢が100歳を超えています。例えば、景行天皇は143歳、仁徳天皇も143歳で亡くなられています。

これは先ほどの「距離」と同じでして、この時代の「年齢=1年間」の定義が現在と異なる可能性が高いのです。

『日本書紀』には、日本に初めて太陰太陽暦が導入されたのは西暦 554 年だと記載されています。更に 3 世紀以前の日本の暦は、農耕に適した春から秋までを 1 年、それ以外の季節を 1年とする 〝2 倍暦年の春秋暦〟を使っていたことが、『魏志倭人伝』に記載されています。

以上、ド素人の筆者が急に思い立って「邪馬台国」論争を、アカデミアではない素人の議論の中から真実に迫ってみました。大間違いかも知れませんが、筆者には腑に落ちる議論となりました。



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