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備前・旭川の憂鬱 (「邪馬台国」は『北九州』で決まり!  23-12) [日記・雑感]


「邪馬台国」論争は古くからありました。そのほとんどは〝北九州説〟と〝畿内説〟です。

筆者が突如「邪馬台国」論争に興味を覚えたのは、ソーシャルメディア、特にYouTubeの汎用化に伴い、アカデミアではない方々、例えば歴史愛好家の方々が、空想ではなく、過去の歴史書や当時の常識的な時代背景、さらに地理学を参照・考証しながら「邪馬台国」論争を冷静に議論されていることに因ります。

「考証」なんですが、辞書では〝昔の事について、文献に基づいて実証的に説明すること〟とあります。これが曲者でして、考古学者や歴史学者は文献・文書(もんじょ)至上主義ですから、井沢元彦氏流にいえば〝当時の常識的な時代背景、さらに地理学を蔑ろにしている〟ので、これが歴史を歪めている、となります。

「邪馬台国」論争も、この側面が垣間見られまして、悪戯に問題解決を複雑にしています。

最近、暇に飽かせて、前述のYouTubeを見ていました。その中で、下記二つの動画に注目しました。

「真・日本の歴史@user-tp1fq1qt2n」著
【魏志倭人伝】邪馬台国はここにあった!邪馬台国論争に終止符!?【真・日本の歴史】
真・日本の歴史@wiSU3hvA7oyy3a1 約1時間
https://www.youtube.com/watch?v=hMDQ5qjoKuI 

「これはどうでしょう@user-wj8xy3zu3b」著
第9話 考古学資料で解明 新・卑弥呼はここにいた【古代史探索の旅Ⅲ】 約20分
https://www.youtube.com/watch?v=sCOBKs9BqPQ 
第10話 考古学資料で解明 新・卑弥呼はここにいた【古代史探索の旅Ⅲ】 約18分
https://www.youtube.com/watch?v=xYHAUFidIe0 

いずれも具体的な投稿者名・著作者はわかりませんが、アカウントで代替させて頂きます。

それと、井沢元彦『逆説の日本史 1古代黎明編』第3章卑弥呼編、および第4章神功皇后編 も参照しました。

両動画の「考証」基本姿勢は、ナレーションでも述べられていますが、

❖ 『魏志倭人伝』 『古事記』 『日本書紀』 『新羅本紀』 光武帝の『後漢書』等々を〝素直〟に
 〝虚心坦懐〟に読みましょう。
❖ 昔の地名 (平成の大合併やそれ以前の地名変更で旧地名が判らなくなっている) と文書の地名の相似
 から、現在の地名に地図化し、場所を特定していきましょう。それでも理解できないところは
 そのままにし、無理な解釈を止めましょう。
❖ 文書に記載されている距離や時間を現在の視点ではなく、当時の視点、常識から理解しましょう。

❖ 考古学的な出土品・発掘品を地理的に、そして時代的に広く水平展開し、考証し、想像・類推を
 排除する。

といったものです。何れの動画も、悪戯に深読みや恣意的な解釈は慎みましょう、としています。

そして、もう一つ、筆者の経験から言えることは〝余りにも不条理で理解不能な事象は「ノイズ:雑音」として無視しましょう〟です。


このような態度・姿勢で『魏志倭人伝』で従来より議論の尽きなかった、帯方郡から邪馬台国への〝方向〟と〝距離〟を、当時の常識に従い〝再考証〟しておられます。詳細は両動画をご覧ください。〝まとめ〟的な解説図を動画から借用します。

邪馬台国 768.jpg

『魏志倭人伝』に記載されている地名を現在地名と対比し、位置関係を当て嵌めていきます。記載されている国名は29ヵ国もあるそうです。ただし、ここで云う〝国〟は、〝藩〟よりも狭く、現在の行政区域の〝市〟あるいは〝郡〟程度と思います。

『魏志倭人伝』に従って先ずは、[帯方郡(たいほうぐん)= 現在の北朝鮮に含まれる黄海北道・南道から軍事境界線の南、ソウル付近] ⇒ [狗邪韓国(くなかんこく)=釜山辺り]、ここから海を渡ります。

(船) ⇒ [対馬国(つしまこく)] (船) ⇒ [一大国or一支国(いっしこく)=壱岐] (船) ⇒ [末盧国(まつらこく)=東・北松浦郡]で、やっと倭国に上陸です。

[壱岐]ですが、『魏志倭人伝』では[一大国]、『魏略逸文』・『梁書』・『隋書』・『北書』では[一支国]と記載されているそうです。


ここから〝陸行〟です。 [末盧国=東・北松浦郡] ⇒ [伊都国(いとこく)=糸島市] ⇒ [奴国(なこく)=福岡市] です。

[奴国]ですが、現在の福岡市には「那の津」とか「那珂川」とい地名が残っています。

[奴国] ⇒ [不弥国(ふみこく)=粕屋郡宇美町] に到着です。ここで突然、南へ[投馬国]へ至る。水行20日と全然別の話になります。


といった具合に『魏志倭人伝』を読み解いていきます。『魏志倭人伝』に出てくる国名と現在の地名を相似してみましょう。

既に述べた地名以外にも、[狗那国(くなこく) =熊本県] [対蘇国(とすこく)=鳥栖市]  [斯馬国(しまこく)=志摩郡]、[姐奴国(そなこく)=佐賀市]があります。

そして大本命の[邪馬台国=旧山門郡]があります。

[投馬国(つまこく)=薩摩?]ですが、薩摩は現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を示します。投馬は「西都市妻」や「都萬神社」として地名が残っています。また〝西都原古墳群〟もあり、[投馬=薩摩]と推定することは可能ですが、少々飛躍がありますので〝ノイズ〟としておきます。


次に〝大問題〟となるのが「距離」です。どこそこから、どこそこまで何里と記載されています。

例えば、[対馬国] まで1,000里 、[一支国=壱岐] まで1,000里、 [末盧国=東・北松浦郡]まで1,000里と記載されています。当時は海上で正確に距離を測定することはできなかったでしょうから、凡そ1,000里ぐらいではないか、という感じです。

また陸行では、例えば [末盧国=東・北松浦郡] から[伊都国(いとこく)=糸島市]までが500里と書かれています。松浦から糸島までは約60kmですから、1里が120mぐらいになります。

[伊都国(いとこく)=糸島市]から[奴国=福岡市]までですが、[奴国=福岡市]は広いので、とりあえず国境まで20kmとしますと、1里が200mぐらいになります。

蛇足ですが[奴国]は当時から大国でして、『魏志倭人伝』でも2万戸と記載されています。戸数が「万」を超える国は、[奴国]、[投馬国]、と[邪馬台国]の3ヶ国だけです。

奴国と云えば例の「漢委奴国王印」という金印です。『後漢書』には、建武中元二(西暦57)年に光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれています。江戸時代天明年間に現在の福岡市志賀島より発見されています。


チャイナの古代数学所の『周髀算軽経』によると〝1里は約76m〟で計算するとあるそうです。現在のチャイナでは〝1里は500m〟だそうです。日本の常識とは大きく違います。この距離が直線距離なのか、それとも旅程距離なのか分かりません。目安程度に理解すべきと考えます。

このようにして『魏志倭人伝』を考証していくと、先ほどのマンガが描けます。結論的に筆者の独断と偏見で言いますと〝邪馬台国は北九州の、現在の佐賀平野から、みやま市、山鹿市辺りに実在したと考えます。そして「邪馬台国」は周辺国も加えた「女王国連合」であったと思います。あの有名な「吉野ヶ里遺跡」もこの「邪馬台国女王国連合」の一つであったのでしょう。

残念ながら、卑弥呼の宮殿や墓が、現在のところ発見・発掘されていません。場所は数ヶ所提示さてはいます。


「邪馬台国」論争はアカデミア・学会的には結論が出ていません。何故でしょうか?

それは「自虐史観」と「皇国史観」の無意味な論争が「邪馬台国」論争を激化させたことにあります。戦後「自虐史観」に支配された歴史学者たちが「邪馬台国」は奈良にあった、と推しているからです。彼らは『古事記』『日本書紀』を否定したいのです。今も歴史学者は神武天皇を含め開化天皇から以前はいなかった、と主張しています。

確かに、初代神武天皇から、16代仁徳天皇までは、記録に残る崩御年齢が100歳を超えています。例えば、景行天皇は143歳、仁徳天皇も143歳で亡くなられています。

これは先ほどの「距離」と同じでして、この時代の「年齢=1年間」の定義が現在と異なる可能性が高いのです。

『日本書紀』には、日本に初めて太陰太陽暦が導入されたのは西暦 554 年だと記載されています。更に 3 世紀以前の日本の暦は、農耕に適した春から秋までを 1 年、それ以外の季節を 1年とする 〝2 倍暦年の春秋暦〟を使っていたことが、『魏志倭人伝』に記載されています。

以上、ド素人の筆者が急に思い立って「邪馬台国」論争を、アカデミアではない素人の議論の中から真実に迫ってみました。大間違いかも知れませんが、筆者には腑に落ちる議論となりました。



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