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海外出張1991年<英国・ドイツ>(その4:最終) [日記・雑感]


このコラムでは1991年に出張した<英国・ドイツ>について述べています。

今回も昨年と同様、LHRヒースローからDUSデュッセルドルフへ向かいました。

1990年の<英国・ドイツ>で述べましたが、英国とドイツの時差は「1時間」です。東向きはフライト時間が2時間となります。これを判っていて、日本で航空券をbookingする時、忘れていました。LHR 8:30発でではDUSは10:30着、となります。LHRで搭乗してから気が付きました。仕事は11:00のアポでしたが、当然、遅刻しました。

ハノーバーへも足を延ばしました。DBで2時間位でしたか。DBの特急はICEと呼ばれています。日本で云う所の「電気機関車」が牽引しています。日本は寝台列車でも電車が多かった(過去形)ですよね。

先方の会社へ行って驚きました。併設の工場がドイツ中世の家の様に見えました。オレンジ色の瓦屋根に、真っ白い壁でして、平屋です。横丁に小川が流れていて、アヒルかガチョウでも歩いていそうな雰囲気です。こんな会社が世界を股に掛けて活躍していました。

この会社は、多分、今、大儲けしていると思います。例の「シェール革命」です。世の中「風が吹けば、おけ屋が儲かる」事もありますね。

昨年1990年時と同じく、デュッセルドルフHbf.からフランクフルトFFM空港駅へ、例のLufthansa-Airport-Express(フライト扱い) に搭乗しました。フランクフルト空港で帰国便JAL408便搭乗まで小休止。とにかく機上の人となりました。

さて翌朝、NRT成田に到着しました。当コラムの1991年<英国・ドイツ>(その1) に少々くどく「湾岸戦争」の事をコピペしました。以下の理由によるものです。

さてボーディング・ブリッジを歩いて到着ロビーへ、この時pressがかなり待機していまして、一部のカメラがパシャパシャと光っていました。小生が目的ではない事は、瞬時に理解しましたが、一体全体何事か??

実は「湾岸戦争」で拘束されていたイラクの日本人学校の生徒達が、フランクフルト経由、同便で帰国したのでした。貴重な経験でした。

後日、日本国の不手際が明るみに出ましたね。戦費供出にクウェートから感謝無し、イラクの日本人救出にJALは組合の反対で飛行機を飛ばせませんでした(後日、JALはデフフォルトしましたね、当然です)。トルコ機2機で救出したのですよ!

このように、それ程多くない海外出張ですが、その後も国際情勢に直面します。日本の政治家さんは、少しは足元を直視し、日本人が如何に苦労をして外貨を稼ぎ、世界でも希にみる素晴らしい国を作っているか、現実を知って欲しいと思います。

以上が、海外出張1991年<英国・ドイツ>でした。次は北欧出張でも、と思っています。



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