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備前・旭川の憂鬱 (〝枕詞:まくらことば〟になった「安全・安心」 22-49) [日記・雑感]


〝枕詞:まくらことば〟中学国語 定期テスト対策、より転記します。

【短歌・俳句】 枕詞(まくらことば)とは何か、進研ゼミからの回答
枕詞とは,おもに和歌に使われる技法のひとつで,ある特定の言葉を導き出し,和歌の調子を整える働きをするものです。
(例)ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
大意:光がのどかに照る春の日だというのに,どうして桜の花は落ち着きなく散っていこうとしているのだろうか。
上の例を見てわかるように,「ひさかたの」という語はとくに訳されることもなく,この和歌において直接意味を持っているわけではありません。このような語を「枕詞」といいます、とあります。

ということで、「安全・安心」は、直接意味を持っているわけではなく、調子を整える働きをするもの、枕詞になってしまいました。「絆」も同様でしょうか。政治家や関係者のご発言には、兎に角、演説や何かの時には必ず枕詞になってしまった「安全・安心」を付け加えます。筆者にはこの「安全・安心」が聞き苦しい限りなんです。


ではこの「安全・安心」を被災者の当事者であった林智裕さんが、ご自身の著書『「正しさ」の商人』徳間書店 2022年で論考されています。当該本の第1章「情報災害」とは何か 「安全」と「安心」は全く別の問題 p27-29 から引用します。

「情報災害」からの「安全」と「安心」を得るにはどうすればいいか。

その答えは、「災害本体」の解決と同時に「情報災害」にも目を向け、それを看過させよう、その答えは、「なかったことにささえよう」とする圧力に抗いながら、その加害構造を顕在化させて解決することにある。

最初に漠然と使われてきた、「安全」「安心」とはそもそも何か整理しよう。

たとえば、何らかの災厄や問題が生じるたび、社会では解決目標として「安全安心」という言葉がしばしば使われてきた。一方で、実際に起こっている風評の問題を追うと「安全であっても安心できない」など、一見矛盾するかのような台詞を耳にすることが多い。これはどういうことなのか。

「安全」と「安心」はそれぞれ「災害本体」と「社会不安」という、」全く別の問題に対応する言葉だとみることはできるだろう。いはば災害本体からの復興が「安全」であり、社会不安からの回復が「安心」といえる。「社会不安」は「「情報災害」を引き起こす大きな要因になる。

「安全であっても安心はできない」は、災害本体に比べ「情報災害」への対応が不足することで頻発する。同時に起こりながらも、対応すべき本丸を全く別にした「安全」と「安心」の言葉は、解決策を見誤らないためにも安易に混同されるべきではない。

たとえば、地震・津波・水害・土砂災害などが建物・道路や医療システム・地域産業など、ハード・ソフト両面において人々の暮らしを破壊するような災害本体は、その脅威を誰の目にもはっきりと見せつける。特に情報通信技術が発達した現代では、より広く、より大勢に、よりわかりやすい説得力と共に実態を伝えやすくなっている。東日本大震災での津波映像などは、直接被災しなかった人々にとっても極めて衝撃的であった。

社会はこれらの共有された教訓やデーターを生かし、「安全」に繋がる減災や被害軽減に向けての知見や対策を次々に積み重ねてきた。

一方で、「情報災害」はどうだろうか。

「情報災害」とは災害本体に付随する強い社会不安に伴った疑心暗鬼と風評、誤解によって起こる多様な悪影響のことを指す。これらは基本的にその全てが人災であり、人の認識や心、いわゆる「お気持ち」に由来する問題でもある。そのため、実態を広く可視化させて理解や知見を正しく共有することが難しい。被害が大規模かつ深刻になって初めて、問題が起こっていたことに気付かされるころさえある。

それでも「人の気持ちを一つ」など、甚大な物理的被害に比べれば些細な問題に思える人もいるかもしれない。しかし、人の「お気持ち」ほど厄介なものはない。

古今東西の歴史を鑑みても、あらゆる災厄には社会不安、あえて古い言い回しをすれば「人心の乱れ」と「流言飛語」が付き物で、多くの人々の言動に強い影響を与えてきた。場合によっては政変や革命、戦乱などの呼び水となって国家を転覆させたり、多くの命を奪うことさえあった。

「ペンは剣よりも強し」との言葉がある。良しに着け悪しきにつけ、人の心を大きく揺さぶる「情報災害」は、時に災害本体に勝るとも劣らない大きなインパクトを社会にもたらしてきた。にもかかわらず、その実態の可視化と共有が難しいため、問題解決どころか被害が被害として認識されないままのケースすら多々あったのだ。

さらに、被害が可視化共有されたとしても、その解決には大きな困難が伴う。どれほど厳重に「安全」を確保し、裏付けとなる客観的な根拠を山ほど積み重ねて説得したところで、人の「不安」をはじめとした「お気持ち」の問題は、最終的には本人の納得でしか解決できないからだ。

これらの理由から「情報災害」への対応、すなわち社会不安の鎮静化は災害本体への「安全」対策と比べて決め手に欠き、大きく遅れてきたと言わざるを得ない。

以上、長文になりましたが、引用を終わります。


もう一つ、昨年の原子力産業新聞『風の音を聴く』より全文引用します。筆者は、千野境子Keiko Chino さんです。彼女の経歴は以下の通りです。
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産経新聞 客員論説委員 神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、産経新聞社入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長、外信部長、シンガポール支局長、論説委員長などを歴任。最新刊は「戦後国際秩序の終わりー世界の中の日本」


「安心・安全」が不安を増幅する?08 Jul 2021

政治家、企業人、一般人を問わず日本人は一体いつから、「安心・安全」をこんなにも乱発するようになったのだろうか。

右代表で菅義偉首相の場合、東京オリンピック・パラリンピックの「安心・安全な大会を実現するためにコロナウイルスの感染対策をしっかり講じる」に始まり、ワクチン接種や災害、事故、景気、原発再稼働など等、あらゆる場面で「安心・安全」が使われ過ぎて、またかと聞き流されるか、逆にホントに大丈夫なのかと不安を増幅させるかのどちらかで、もはや本来のメッセージ力が失われているように思う。

安心と安全は言うまでもなく、まったく別物だ。安心感とは言うが安全感とは言わないし、安全性とは言うが安心性とは言わない。この例が物語るように、安心は気持ちであり主観的、対して安全はある種のバロメーターであり客観的と言える。

どんなに安全を徹底しても安心するかどうかには個人差があり、「私は安心出来ません」と言われればお終いである。

そう考えれば、安心と安全をセットのように気軽に一緒に出来ないはずだ。もっとも菅首相が「五輪は安心と言うのは難しい」などと言おうものなら、それこそ上を下への大騒ぎになりかねないのが、現在の日本の社会でもあるだろう。

しかしこれはやはりおかしい。かつては、消費者問題であれ原発問題であれ「安心」と「安全」は分けて考え、安易に一緒にしないという常識が働いていた。少なくとも私が関わった2010年頃までの審議会とか有識者委員会などではそのようであった。

もちろん「安心・安全」は望ましいし、理想的だ。しかし現実にはそれほど簡単な話ではない。それなのに意識、無意識を問わず使われ過ぎた結果、効果半減どころかマイナスの事態さえ生じているのではないだろうか。

その第一は安心・安全を過度に重視した結果、行政、ビジネスを問わず日本の社会に失敗を恐れ、リスクを回避する傾向が強まったことだ。「ワクチン敗戦」との声が聞かれる。未だ国産ワクチンは出来ず、供給もペースを上げれば追い付かず、中止・再開とお粗末だ。理由は多々あるにしても、ワクチン開発や接種がリスクを伴うことと無縁ではないだろう。

第二は「安心・安全」は誰かが与えてくれるものという錯覚を招き、依存心や依頼心を強めたことだ。だから「安心・安全」が得られないと、その責任を他者に転嫁する。不安や不満は皮肉にも反って増大することになる。

第三はそうでありながら、矛盾したことに、少なからぬ人が実は「安心・安全」を本気で信じているわけではないことだ。

内心は「そうは言っても無理ではないか」と思っている。一種のバランス感覚で当然なのだが、一方で言葉が額面通りに信用されないことは、政治家であれば政治不信に繋がり、民主主義の劣化を招く。そもそも安心は信頼抜きには得難いものなのだ。

最後に第四はこれらのツケでもあると思うが、「安心・安全」の過度の尊重は社会から活力を奪う。失敗を恐れ、リスクを取るのが嫌なら、何もしなければ良い。何もしなければ失敗もないし、リスクにも直面しない。しかし社会は低迷、停滞を余儀なくされる。

昨今の学生が留学したがらない、商社マンが海外へ行きたがらないなどの傾向はその兆候のように感じる。
「安心・安全」の東京オリ・パラ実現のため、無観客で実施する可能性も高まる一方、東京に先立ちサッカー欧州選手権決勝(12日)を行うロンドンの場合、デルタ株の蔓延で一日2万人を越す感染者を出し、しかも増加傾向にありながら、英政府は6万人超の観客動員の方針を諦めない。ドイツやイタリアの開催地変更を求める声にも、ジョンソン首相は「安全かつ確実に(安心にではない)開催するつもりだ」と言ってはばからない。

英国を見習おうというのではない。文化も歴史も社会構成もすべて異なる以上、日本は日本の選択をする他ない。しかし「安心・安全」と言う前に、安心は一旦脇に置き、安全をトコトン追求する姿勢を貫徹してはどうだろうか。その方が問題の所在が浮き彫りにされる。

以上引用を終わります。


何れの方も「安全」と「安心」は解決策を見誤らないためにも安易に混同されるべきではないし、安易に使用すべきではない、社会からか活力を奪い委縮させてしまう、というものです。



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