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備前・旭川の憂鬱 (「議論できる憲法改正(終章)」 18-99) [日記・雑感]


昨年の5月3日だったと記憶していますが、安倍総理が憲法改定に関して〝9条1項(侵攻戦争放棄)、2項(戦力不保持、交戦権否認)を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値するだろう〟と突然?でもありませんが提起されました。

これが起点となりスケジュールを含む「具体的」な議論が始まりました。それ以前は〝憲法〟について話すことや〝改正〟は実質的にはタブーとなっていました。

何故に賢い安倍総理がこのような奇案を言われたのでしょうか?

〝加憲〟を標榜する公明党に忖度したとしか思えません。政治は〝現実〟です。街のコメンテーターではありませんので、結果を出さなければなりません。国会で発議するための、妥協に次ぐ妥協も必要となるのでしょう。



「日本国憲法」の中で普通の日本国民が普通に読んで〝あれ?これはおかしい〟と思うのが〝憲法前文〟と〝9条2項〟です。


【「日本国憲法」全体】
「日本国憲法」全体に言えることですが、現代の日本語ではありません。さりとて英語の直訳でもありません(すみません、GHQドラフトは読んでいません)。

次に文章が長過ぎます。主語、述語、目的語等の関係が不明確です。大凡日本語は論理的ではない、といった程度ではありません。これだけでも、憲法改正の理由が充分にあると思います。

そして専門家である伊勢崎賢二さんや篠田英朗さんの言説を読み聞きして〝目から鱗〟でした。筆者は全く誤解していました。


現行憲法はGHQドラフトが原点のようです。ですから「日本国憲法」のGHQドラフトを「英語」で読めば国際標準である、「国際法」や「国連憲章」、あるいは「大西洋憲章」、「パリ不戦条約」や「リンカーン・ゲティスバーグ演説」に辿り着くようです。がしかし現在生きている、そして生活している日本人から見ると〝チンプン、カンプン〟です。


日本の憲法学者は「立憲主義」を盛んに喧伝します。立憲主義は〝権力を制限すること〟で、これだけは譲れないと主張します。このような護憲勢力の主張する立憲主義は戦後日本憲法学特有の時代がかった、いわば「ガラパゴス立憲主義」です。

重要なことは「権力者」も「日本国民」の一人です。ですから「権力者」を縛る事は、その「権力者」を選んだ「日本国民」を縛る事になると思います。すなわち憲法は「日本国民」の暴走を防ぐ事と変わりありません。それゆえ「憲法」も「法律」も同じと思います。


【憲法前文】
先ず筆者は憲法前文の中ほどに記載されている『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』に違和感をもっていました。自国の安全と生存を他国である諸国民に依存するなんて、アホか!?と思ってきました。

ところがこれは誤解でした。違うのです。でも納得はしていません。この『平和を愛する諸国民』は、お隣のロシア、チャイナ、北朝鮮や韓国を指し示しているのではない、という事です。

英語では〝peace-loving peoples〟でして、第二次世界大戦後の連合国の戦後処理構想、国際協調のあり方についての「大西洋宣言」の中にある言葉で国際的標準語なんだそうです。すなわち〝peace-loving peoples〟は、今では国連加盟国全体を指し示すのだそうです。

こんなお話し、市井の日本国民、生活者は、多分全く理解していません。


【9条2項】
この項は国際標準と全くかけ離れているようです。今までこの2項や護憲勢力が声高々に主張していることは、「戦力:war potentialの不保持」および「交戦権:rights of belligerencyの否定」です。

ところが国際標準である国連憲章では、「自衛権:self-defense」は合法、「戦争:war」は違法である、という厳然たる区別があるそうです。

先ずは言葉の定義から。筆者の理解した範囲ですので齟齬はあると思います。

「戦力:war potential」と「自衛権:self-defense」の違いです。筆者を含む日本人の思考形態からすると理解しづらい所があります。

国際社会が兵力を評価する時の尺度です。筆者が考えるのは「平衡状態」か「天秤的水平状態」かの違いではないかと思います。

「平衡状態」は、〝綱引き〟や〝おしくらまんじゅう(死語か?)〟のように、押し合っている状態が基点・基準となると考えます。

平和を愛する敵、いや国が戦車100両、戦艦10隻、戦闘機50機、保有しているとしましょう。その時、我が国も同じ数の戦車100両、戦艦10隻、戦闘機50機、保有することが、国際法で認められている「自衛権:self-defense」なのです。

では「戦力:war potential」とはなにか?この「自衛権:self-defense」を逸脱して〝戦争を目的とした潜在力を持つ〟という意味です。曖昧と言えば曖昧です。


日本人の考える「戦力:war potential」や「自衛権:self-defense」は、武器を1丁持て持てば、それは戦力であり自衛権なのです。

これは「天秤」に似ています。〝何も無い水平状態〟が戦力や自衛権の不保持に相当します。ですから鉄砲一丁持っても「天秤」は水平位置から傾斜しますから、相手に脅威を与えたとなります。すなわち、日本人の考える「戦力」を持ったことになりますから〝「日本国憲法」違反〟となります。これを「絶対平和主義」とか「一国平和主義」と呼びます。


次に「交戦権:rights of belligerency」です。これも目から鱗です。国際法や国連憲章では、この概念が無い、のだそうです。なぜならば、「戦争:war」は違法ですから、当然「交戦権」という権利はありません。無いモノを放棄することはできません。

筆者が考えていた「交戦権」は〝宣戦布告する権利〟といったような意味で捉えていました。ですから、交戦権の放棄は単純に〝戦争はしません〟と理解していました。


以上のような理解で、筆者はこの2項は、国際法や国連憲章では意味を持ちませんので〝削除〟が最適と思います。「日本国憲法」第98条2項に〝日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする〟とありますので、9条そのものが不要かもしれません。馬から落ちて落馬した、になっています。



安倍総理は〝何が何でも憲法の矛盾を解消したい〟という「超現実主義」です。

篠田英朗さんは安倍総理と同じで、長々と議論している時間が今日現在の日本国にはない。未経験の少子高齢化、島国である日本、国力を疲弊させる時間の余裕はない、と仰っています。

結論は、憲法の解釈を確定させるために、9条に3項を追加することもやむを得ない。国際社会の一員として行動をとるべきである、と。



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