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備前・旭川の憂鬱 ( なぜ日本の国会の議論は不毛となるのか!? 19-62) [日記・雑感]


学者や識者が既に様々な角度から議論しつくされているようにも思えます。しかし筆者は納得していません。

基本的な認識は、現状の〝民主主義を是とする〟以上、物事は国会での議論を尽くしたと思われる後〝多数決〟で決めるというものです。では〝議論の最後〟とは何時か、ということですが、むろん未来永劫に議論すればいい、とはなりません。

衆議院の優越を除き、法的にも理論的にも決まっていません。慣習的にこの法案は30時間議論したから、そろそろ採決に..となっています。30時間に根拠はありません。


筆者は、結局「議席の数」の力が決めている、と思っています。過半数の議席を占めている政治勢力 (必ずしも政党ではありません) が、オセロゲームよろしく、物事を決めるのです。

最近、イギリスのBrexitに関する採決を見ても、現状の民主主義を是とする以上、学者やジャーナリストがポピュリズムはけしからん!とか何を言おうとも、法に定められた通り「多数決」で決める以外に無いのです。


にも拘わらず、野党は明らかに劣勢にあって〝無駄な抵抗〟と判っていても、その存在意義を主張するには、採決に当たっては、岩盤支持層へのパフォーマンスが必要です。

牛歩戦術といったアナログ (アナクロニズムか?) や委員会の議長席を占拠するとか、それも最近は女性議員のセクハラを悪用した戦術、最後には不毛な内閣不信任案の深夜提出、と続きます。

〝働き方改革〟は何処へいったのか!?


筆者はここで〝岩盤支持層に対する存在意義〟に注目したいと思います。

野党の岩盤支持層は戦後レジームそのものを信じて疑わない層、固定客です。それは、「憲法9条」に絶対的な価値を見出だす固定客=岩盤支持層がいらっしゃることです。

その考え方は、以前にも述べましたが〝戦後のエリート達が考えていた事でして、平和憲法は「絶対の善」であり「社会主義は理想」的な社会システムである〟というものです。具体的な方策は〝日本を非武装中立から(民主)社会主義に移行させる〟ことです。


戦後75年近く経過し、科学技術は進化し、経済的にも豊かになり、憲法第二十五条 (国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する) も先進各国と比較して (子供食堂もありますが) ほぼほぼ達成されましたが、彼らはそれを直視しない。だから、問題点も整理できないので、政策立案に至りません。

その憂さ晴らしが、彼らの最も嫌うポピュリズムの極致、日本国内だけに限定された週刊誌ネタによる〝スキャンダル〟の追及です。


ソ連崩壊後の世界の変革、少し旧式の言葉ですが、第三世界の台頭、その中でも特に〝チャイナ・インド・北朝鮮〟さらに中東情勢、EUの拡大とロシアの行動、といった事に関する発言を彼らから聞いた事がありません。

〝人権、人権〟と言っているわりには、世界の人権問題の解決策を発信していません。国連のイカガワシイ人権委員会にfake infoを流して留飲を下げているだけです。


今の野党には、残念ながら「憲法」以外の独自の政策が無い、立憲主義を捨てると野党の存在意義が喪失し、固定客も喪失してしまいます。


では何故に世の中が変わっても、彼らは戦後レジームを守り通そうとするのか、です。それは意外にも江戸時代、徳川幕府の推奨した儒教にあるように最近思えてきました。

儒教には「歴史を捏造する」という欠点があるそうです。

「過去に起こったこと」をとりあえずそのまま記録するのが歴史なんですが、儒教に置いては歴史とは「そうであった」ではなく「そうあるべきだった」という形になるそうです。現実よりも理想が優先する、という事でしょうか。

「平和憲法があった」から日本は平和だった、それは決して証明されたものではなく、理想に過ぎないのですが、彼らはそれを真実と思い込んでしまっています。

儒教は常にそれを「事実」ではなく「願望」つまり「そうあるべきだった」という形に変えてしまう傾向が強いのだそうです。現在の日本の野党そのもの、といって良いのではないでしょうか。


一昨年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ著「日の名残り」では〝今日の世界は高貴な本能を大切にしてくれるような綺麗な場所ではない。〟と。



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