SSブログ

備前・旭川の憂鬱 (【市民運動】とは!? 20-39) [日記・雑感]


「広辞苑」第四版1991年によりますと、市民運動とは〝市民による自発的な社会・政治運動。歴史的には市民社会の消長に則してブルジョアジーが政党と議会の内外に展開した。今日では市民による自立的で非党派的・非組織的な運動を指す。〟とあります。何かチョット違うなあ!?

小学館の「デジタル大辞泉」では〝一般市民が中心となった政治・社会運動。ふつう、特定の政党と無関係なものをいう。〟この方が簡潔で判り易いか!

その市民運動が過激になり、沖縄の基地周辺では〝自粛警察〟モドキの治外法権的な組織が一般の県民を退けているphotosを散見します。筆者は残念ながら仕事でも観光でも沖縄へ行ったことがありませんので...fact/事実は直接見聞きしていません。

2020/06/07は令和2年沖縄県議会議員選挙でした。一夜明けた新聞紙面は、なんとも判り易い。

「沖縄県議選、知事支持派が過半数維持、自民議席を伸ばす」産経
「沖縄県議選、知事与党が過半数維持、辺野古反対に勢い」朝日

事実である選挙結果は以下の通りです。事実は1つですが、見方により、その見え方が全く違います。

告示前は定員48に対し、与党26・野党18・中立2でした。投票結果は、与党25・野党23。投票率は53.31%が46.96%に大幅低下となりました。


筆者はこの「辺野古反対に勢い」に注目し、過去の【市民運動】を振り返ってみました。研究者でもジャーナリストでもない筆者が、過去に記憶している数件の市民運動に限定します。勿論、誤解やバイアスがかかっている事は承知です。


1.成田空港闘争
これは研究者の研究材料としてもワンサと論文・言説・解説が公開されています。全貌を手っ取り早くご覧なりたい方は2017/01/28の「成田空港の利用客が10億人突破! 開港前に反対運動はなぜ起こったのか」 https://www.fnn.jp/articles/-/6468 をご覧ください。

成田闘争は1962年、国は新しい国際空港を立てる必要に迫られ、羽田空港の次の国際空港を作ることを閣議決定した事に始まります。その後〝土地収用を阻止〟すべく、火炎瓶を投げる反対派や新左翼との反対運動が加わり、長期に渡る「三里塚闘争」に発展しました。後日映画にまでなりました。


前述のFNNプライムオンラインに上手くまとめてあります。

《第1回》 成田空港の利用客が10億人突破! 開港前に反対運動はなぜ起こったのか
・成田の前に空港建設が内定していた場所があった
・成田の土地は開墾地が多く、住民がようやく手に入れた土地だった
・様々な思惑を持った人が入り込み反対運動が組織化されていく

《第2回》 死傷者が多数に…なぜ成田空港の反対派は過激に進んだのか(この記事)
・初期の反対運動は遵法運動で暴力的なものでは無かった
・新左翼などと行動するようになり死者がでるような運動に変移
・双方に死者が出て、住民が求める反対運動では無くなっていった

《第3回》 闘争から共存へ… 成田空港のこれからは
・開港直前に管制塔が襲われ開港が延期となった
・住民と話し合いを重ね共存への道が見出された
・これからの成田空港の未来は話し合いで解決されていく

成田空港の土地は開墾地だったそうです。戦後満州などから引き上げてきた人、また沖縄に米軍基地ができたことから本州に来た人々が、国有地などの払い下げを受け、20年のローンで地代を払い、1966年に払い終わるという状況だったという事です。

ようやく土地が自分のものとなるはずだったこの1966年と言う年は、奇しくも空港を成田に作る閣議決定がされた年だったという事です。

成田の反対〝運動〟はその後〝成田闘争〟に展開し、1971年には現場近くで応援の神奈川県警機動隊員3人が、若手農民や過激派のグループに襲われ死亡するという悲惨な東峰十字路事件も起きました。


筆者は1982年ごろから20年間、仕事で成田を使いました。なにぶん1本足空港(滑走路が1本)でして、遅れは常態化していました。その典型が筆者がシカゴからAA機で帰国、着陸態勢に入ってから急遽方向転換、銚子沖で小判状に複数回旋回、1時間以上も待機飛行に2回も遭遇しました。せめて2本の滑走路があれば、と恨めしく思ったものです。

その後、筆者が仕事で空港を必要としなくなった2002/04より、短い第2滑走路滑走路が並行して運行開始となりました。少しは混雑が解消されたのではと思います。これも住民が空港反対派や過激派と別れ妥協したので実現したものです。

成田闘争は広辞苑のいう「市民運動」と性質は全く異なります。また一般の国民には多大な経済的損害を与え、日本国の国際競争力を著しく毀損したのではないかと思います。


2.従軍慰安婦問題・徴用工問題
極最近、韓国の文在寅大統領が〝慰安婦問題は日本との「真の謝罪と和解に至っていない」〟と言ったらしいです。

ここでは従軍慰安婦問題・徴用工問題そのものを議論する意図はありません。事の流れを重視しますので、内容に間違いもあると思いますがご容赦をお願いします。市民運動が日本だけでなく、むしろ韓国の方が先鋭的に延々と続いている事を問題としたいのです。

この問題の【元々】は、 1982年9月、朝日新聞は「韓国・済州島で200人の慰安婦を奴隷狩りした」という吉田清治という男の証言(1982-1992) を報道します。その後も16回にわたりこの証言を取り上げ、「強制連行」の根拠として報道を続けました。

済州島の「済州新聞」が追跡調査し、当時そうした「慰安婦狩り」を住民が聞いた事がないという証言があったにも関わらず。再調査で他にも〝虚偽証言〟に基づく記事が見つかったそうです。1995年になって吉田清治自らが〝証言は個人的主張を織り交ぜた「捏造」である〟ことを認めました。

ところが、この問題は以下の経緯を辿ります。

1991年8月 韓国で元慰安婦が初めて名乗り出る、12月 元慰安婦が日本政府を提訴。政府が調査開始
1992年1月 宮沢喜一首相が日韓首脳会談で謝罪、7月 政府が調査結果発表。政府の関与を認める
1993年8月 河野洋平官房長官が談話で慰安婦の募集、移送、管理に強制性を認め「お詫びと反省」
      を表明(河野談話)
1994年8月 村山富市首相が談話で慰安婦問題の解決策について「幅広い国民参加の道を探求したい」
      と表明
1995年7月 政府主導で民間のアジア女性基金が発足。国民の寄付をもとに「償い金」を元慰安婦に
      支給するなどの「償い事業」を実施
1996年   国連人権委員会「クマラスワミ報告」、日本の活動家の要請があったようだが、
     「人権問題」にすり替えられる
2007年3月 基金が解散、7月 米下院、慰安婦問題で対日謝罪要求決議を採択
2014年6月 政府が河野談話作成過程の検証結果を公表
2015年12月  日韓会談における合意、慰安婦問題が〝最終的かつ不可逆的に解決されることを確認〟
2016年12月 在釜山日本国総領事館前に慰安婦を象徴する少女像を設置
2017年11月 「日本軍慰安婦被害者追悼の日」として国家記念日に制定
2020年4月  韓国総選挙で慰安婦支援団体代表が当選、5月 この当選者が私腹を肥やしていた事が判明

30年経過しても問題は一向に解決しません。

この問題の本質は韓国の過激な市民団体が、従軍慰安婦問題を彼らの格好の「活動テーマ」としてしまったことです。ですから解決しては困るのです。解決すると他に活動テーマを探さなければなりません。ですから、よく言われるように解決しそうになると〝ゴールポスト〟を動かすのです。


3.福島第一原子力発電所事故、処理水の海洋投棄
この問題は筆者が数回、当blog にpostingしています。
  https://ironbridge-uk.blog.ss-blog.jp/2018-08-16
  https://ironbridge-uk.blog.ss-blog.jp/2019-09-18

地元の漁民の方々が強硬に〝処理水(汚染水ではありません)の海洋投棄〟を風評を理由に拒否されています。

これも地元の方々に対して、原発反対派の活動家のご活躍、刷り込みがあったのではと想像しています。〝問題を解決させない・させたくない〟というように見えます。


4.沖縄普天間米軍基地の辺野古への移転
反基地運動の高まりを受けて、日米両政府は沖縄の基地を削減する方針で交渉。普天間飛行場の返還を柱とする案を策定しました。この「返還」には「ある条件」である〝代わりの基地を沖縄県内に建設する〟というものでした。

1996年 普天間飛行場の移設、条件付き合意
2004年 米軍ヘリが大学構内に墜落・炎上、市街地のど真ん中に位置し「世界一危険な飛行場」
    と称される。
2010年 鳩山首相「最低でも県外」と紆余曲折の末、辺野古移転を追認、「県外移設」を断念
2014年 基地反対派の翁長雄志氏が新知事に当選
2018年10月 翁長知事死去に伴い、基地反対派の玉城デニー氏当選

日米が普天間基地返還に合意して24年経過しています。宜野湾市の4分の1を占める普天間飛行場は、今も市街地のど真ん中にあります。報道では反対派の属性の報道はありません。日本語では無い文字や、怪しげな言語で書かれたプラカードがSNS上で見られます。誰のための何のための〝反基地闘争〟か!?甚だ疑問です。

この運動?闘争?はもはや市民運動ではなく、外国勢力の(資金提供を含む)影響も疑われます。組織立ったテロ活動に〝近い〟と思います。


以上、筆者が記憶する「市民運動」と称する活動をまとめてみました。筆者の考える結論は、

① 問題の発生した時点では(韓国は全く別)地元住民は〝純粋〟に問題を解決しようとしていた。

② この問題に「市民運動家」と称するプロの活動家が地元民に憑依し、問題を拡大・過激化させ
 自らの存在を世間に誇示す闘争に転換させた。住民の意思・意向とはかけ離れ行きます。

③ 折角、育て上げた「活動テーマ」を、住民の意向で解決させない・させたくない、すなわち問題が
 解決すると彼らの生命線が絶たれるので、活動を「維持」させる事に目的が変わって行く。韓国の
 例は顕著です。

④ このように数十年に渡る「活動・闘争」を維持するにはどうしても「お金」が必要です。
 このお金がどこから来ているか!?気になります。



nice!(11)